連想の遅延評価

連想が言葉の意味を決める。

連想できることが意味ある言葉である。

連想できない言葉は意味が決まらない言葉である。

意味が決まらなければ無意味である。

連想できるかどうかをどう確かめるのだろうか。

連想できないことは、ただ物を知らないだけではないか。

経験や教養があれば、連想できる宛先が増えるだろう。

よって連想できるかどうかの幅や広さといったものは、経験によって増減する。

すなわち、連想できないから無意味なのではない。ただ物を知らないから、暫定的に無意味と誤解してしまうことだ。

意味無意味は連想に依存するかもしれないが、連想できるできないは、知識に依存する。

浅はかな知識による無意味。いずれ経験を積めば意味になる無意味。

このように時差を持って無意味から意味に変化をすることを遅延評価と言うこともある。

遅延評価は計算一時停止的であるのでリソースが限られた人には優しい。

連想が言葉の意味を決めるのなら、連想が非停止だと言葉は無意味になるのか?


言葉には中身がある。
りんごという言葉を聞けば赤い果実や皮をくるくると包丁で剥いていく感触やシャキッとした触感などを連想する。
そのように連想した物がりんごという言葉の中身になる。
定義ともいえるが、定義とは妥協のことだと思うのであとで。
では連想した先にある言葉の中身はなんだろうか。
これも連想によって中身が詰め込まれているのを確認することになると思う。
言葉の中身の中身の中身のと、連想していく先に言葉の確かな支えとなる意味があるのだろう。

 

りんごという言葉の確かな支えとなる意味は何になるのだろうか。
りんご -> ゴリラ -> ラッパ -> パンツ -> つみき -> きつね -> ねこ
林檎とは猫なのかもしれない。

 

さて、連想の果てに連想が終わる言葉はあるのか。
それより先は連想不可能な言葉。
そこに言葉の意味の確かなよりどころがあるのだろうと思う。
もしくは意味のない、中身のない言葉。それであれば連想もできないであろう。

 

連想が言葉を意味付ける。
連想した先にある言葉の意味付けるのも連想である。
その先も。
連想が終わらなければ、意味を定義できないのではないだろうか。
もしくは連想が終わってしまう時は、意味のない言葉にたどり着いてしまう時じゃないだろうか。
果たして、意味のない言葉に意味を支えられた言葉に意味はあるのだろうか。

 

ひとまず、無いと仮定しよう。
では、私たちが普段使う言葉は意味があるはずだ。だってコミュニケーションできているのだから。
意味のない言葉では会話もビジネスも娯楽も成り立たないはずだ。
だから意味のない言葉はだた単純に使われていない言葉たちだろう。
意味がある言葉のみが重宝されているはずだ。

 

でも、意味の言葉はとても簡単に作ることができる。
「りんご」
この言葉には意味がない。という設定に今からする。
この設定という概念を使用すれば意味は消える。
ツッコミどころは山ほどあるが、そういうもんだ。
だって、私たちが連想するアレコレがりんごだってだれが決めたんだ?
赤い果実だから?他にもイチゴ、トマトなどいろいろあるはず。
皮をくるくると包丁で剥いていくから?いろんな野菜を同じように調理したりするだろう。
シャキッとした触感?梨とかキュウリとか。
りんごをりんご足らしめている、意味は、中身はなんなのか。
連想すればいいんだった。そしたら確かな意味があるはずだ。
でもりんごについてそんなにたくさん思いつかないよ。。。
私ではりんごを確かな意味のある言葉にできない。

 

でも私はりんごという言葉を何度も何度も人生の中で使用してきた。
その言葉でちゃんと会話が成り立っていた。
りんごという言葉でりんごという意味を相手に伝えることができていた。
なぜだろうか。

 

私が言葉の意味を確かな物へできなくても、聞き手はできるのかもしれない。
でもできないかもしれない。
お互いにできなかった場合でも会話が成り立つのはなぜなのか。
それは、意味が不確かでもちゃんと会話が成り立つからだ。
言葉の意味が確かであるか、不確かであるかが、会話が成立するかどうかを決めることはないからだ。
いや、そんなわけはない。

 

りんごという言葉の意味を、話し手は果物、聞き手はiPhone作っている会社と考えていたら、完全に誤解が生まれる。
もちろん、すぐに修正可能な誤解ではあるが、聞き手がそもそもりんごがなんであるかまったくわからないとしたらどうか。
話し手はリンゴがなんなのかをいろんな角度から説明するだろう。でもさっぱりわからない。
話し手はついにリンゴの説明をあきらめてしまう。とすれば、最初にしたかった話もできず、会話は成立しない。
やはり言葉の意味が確かであるか、不確かであるかが、会話が成立するかどうかを決めるのだ。

 

ところがどっこい、言葉の意味が不確かでも話は進む。すでに意味が確かな言葉だけで話ができるからだ。
すでに意味が確かである言葉たちはどのようにして、すでに意味が確かであるということになっていったのか。
プリミティブな言葉で抽象度の高い言葉が作られているのだろうか。
CPUのための機械語アセンブリ言語で書いて、そのアセンブリ言語C言語を書いて、そのC言語RubyJavascriptを書いて。。。
原始的な言葉で高級で抽象度の高い言葉を組み立てていく中で、意味のない言葉を作り上げているのだろう。
高級で抽象度の高い言葉だからこそ、意味のない言葉が存在しうるのだろうか。
しかし、原始的な言葉がちゃんと確かな意味を持つ言葉であるのなら、その上に成り立つ高級で抽象度の高い言葉も、その一番下にあるであろう確かな意味にたどり着くことができるのでないだろうか。
意味ある会話ができる私たちは、意味ある言葉の確かな意味をちゃんと連想し、たどりつけるはずだ。
私個人にはできない。りんごという言葉ですら無理だった。教養の問題ですかね。そうですね。

 

意味が不確かな言葉の中に隠れ潜むであろう確かな意味を無意識のうちにつかみ取っているのかもしれない。
それが会話を成り立たせているのかもしれない。
無意識が言葉の意味の確かさを確かめてくれているとは思わなかった。
とくに思ってないです。


さて、本来ならば論理的に思考プロセスも組み立てて書きたかったのだけど、ソンナスキルないのでまとめ。

 

言葉の意味は連想によって定められる。
その連想は停止しない。
停止しないのは言葉の意味が循環しているからだ。
無意味が無意味を支えあって、意味ある物にしている。
それはほんとに意味があるといえるのか?
無い。と私は思う。
しかし言葉が構成要素となっている多くのことが、それでは私にとって成り立たない。
では、意味を付けるしかないのだ。
連想を止めるしかない。
その方法が「設定」だ。
意味がないはずのものを意味があるのだと設定してしまうのだ。
その「設定」を私は「いい加減さ」と呼ぶ。
つまり言葉の定義とは、設定であり、妥協であり、適当であり、いい加減さ、である。
この設定の山、辞書と言うべきものを、教養と呼ぶのである。
教養は共通言語として機能する。
教養は思考停止の山である。私たちはこの山で暮らしている。
人間の計算能力は有限である。
もしかしたら、言葉の連想を計算し尽くせばどこかで答えがでるのかもしれない。連想が止まるかもしれない。
無限ループと思っていた物も1000年回していれば、ちゃんと止まるのかもしれない。
しかし人間には寿命があり体力がありとで1000年ももたない。
だから事実上、連環した連想は終わらない。
だから設定がある。妥協がある。いい加減がある。適当がある。勝手がある。
本来不確かな言葉の意味の設定が、連想の先にあれば、計算は止まる。
そこで連想は打ち切る。そういう設定になっている。
そのように積み重なった言葉の連想の深さのことを、知性や教養と呼ぶのであろう。


でもそんなこと誰が決めたんだ?どうしてそれに従わなくちゃいけないんだ?と疑い深くなってしまうときがある。
そんな時はだいたい嫌な気分の時だ。
だって、その設定の上にありありとイキイキとした泥臭く生臭く鮮やかで華やかなクソみたいで最高な現行社会があるのだから。
それに嫌気がさしたから、それを否定しだす。
それにいじめられたから、嫌気がさす。
それにうまくなじめなかったから、いじめられだす。
そんな風に、「設定」に疑いが向く。疑問がわく。
論理的に言葉に意味を辿ったら、辿りきれないことに気づく。
そしたら思う。「意味に意味がない」
意味がないはずなのにこの社会はどう成り立っているのか。
意味を勝手に設定しているのだと。ディールしたんだと。
それってとても「意味」に対して、不誠実なことではないか。
自分勝手で、無礼だ。
多くの原始的な構成要素である「言葉の意味」に対してこれほど無礼なことをしながら、平然としている現行社会。
こんな人たちは、最初からクソだ。意味のない言葉を、さも意味があるかのように語り、あれをしろ、これをするべきだ。と言う。
どうしてクソみたいなこいつらの設定に付き合わなければいけないのか。

 

「そんな必要はない。自分も同じようにクソみたいに勝手に設定すればいい。言葉は本来そう言う風に使われているのだから」
というパターンと
「そんな設定に付き合わなければ生きていけないのが現行社会なんだ。私はそんなクソみたいなやつらと同じになりたくない。どう生きていけばいいんだ」
というパターン。
前者はある意味リアリズム。現実の構造に適応してそこで生きていける。
後者は絶望パターン。人生から「意味」という概念が崩壊してしまった感があふれる。

 

後者は、さらに意味を深堀するのだろうと思う。
意味の構造を発見してしまったように、またどこかにそれを否定するものもあるのであろうと。
連想や論的演繹という方法では見つけ出せないと、どこかで計算リソースが尽きる。
そこで出てくるのが瞑想だったり宗教だったり「体験」。
体験型アトラクションで幸せを感じ、それが真理なのだと設定してしまう。
結局、自分も設定で解決しようとするわけだが、それを正当化するのが、平和や瞑想などで得られる身体的な分泌物としての幸福感。

 

平和を掲げるのは、自分は「意味」をわかっていて、自分もまた不誠実な存在であるとしってもなお、そのなかでできるかぎりをつくして誠実であろうとする。その誠実さを他の人も実践できれば、少なくとも今よりかは、原始的意味の誠実さを土台とした社会ができあがるであろう。私を追い詰めたクソみたいな社会を変えられるだろうというようなモチベーションになるのではないかと思う。

 

瞑想は独りに閉じているため、そもそも意味にたよる必要ない。
もともとコミュニケーションにおいて重要な物だったのが言葉に意味だ。コミュニケーションスパイラルによって社会は構築される。
孤独に生きていれば、社会など必要ない。しいては意味も必要ない。
現実的には、真の孤独などありえない。しかし、文明の器機なしで、体一つで山にこもり生き抜いている人もいたりするだろう。
そのような野生が働く極限状態の方が多幸感を感じやすいんだと思う。
だから偉い人は山にこもって修行するんじゃないかな。知らんけど。

 

続く。

インターネットのカタチ

 

インターネットのカタチ―もろさが織り成す粘り強い世界―

インターネットのカタチ―もろさが織り成す粘り強い世界―

 

 

インターネットの柔軟性、ネットワークのネットワーク、BGP、AS、インターネットのバグ、DNS、キャッシュ、CDN、物理的インターネット、国境、渋滞、密集、インターネットの可視化技術、ping、traceroute、reverse tracerouteなどなど。

バイオーグ トリニティ

 

 

The世界系というんだろうか。君と私が世界のすべてで、僕と君の恋の行方が、世界の行方。すごく閉じた舞台の中に物語を広々と閉じ込めたなと。ほぼ学校の校舎が舞台。微エログロで緻密でとてもきれいな絵柄。鼻がたまにないのが気になる。愛し合う運命にあるヒロインと主人公との間に差し込まれた二人のキャラクター。その四角関係が調和していく構造と物語の帰結がとても後味がよい。

認証欲求のネイティブみ


認証欲求が比較的本能に近いところにある欲求であるかのように見聞きするが本当のところどうなん。

 

認証欲求と言うと、ネットではSNSでフォロワー増やしたりいいね稼いだり、人に褒められたり、自分を受け入れてもらったりだろうか。自分を受け入れられるということは、コンプレックスや劣等感などに肯定的な認識が加わり、自己嫌悪の緩和、ひいては人の目が気にならなくなる。


社会的優位性の確立によって経済基盤の安定につながる。などなどが発生し生きるのが楽になるのだろうか。生存確率を高めるものだろうか。もっと膨らんで支配欲につながるのだろうか。認証欲求は王になりたいことの表れなのだろうか。いいねを稼ぐとキングになり子孫繁栄につながるのだろうか。

 

社会生活の柔軟性かなぁ。

ブランクスペース 4話

 

前回から不穏だったスイちゃんがいじめられているのを描写される回。
詩が好きなスイちゃんの心を詩が駆けていく。

 

飼い慣らすすべし獣ほど猛久しくなくて、それでも日々とは獣 - 中澤系
何がなしに、頭の中に崖ありて、日毎に土のくづるるごとし - 石川啄木
海に足浸る三日月に首吊らば - 西東三鬼

 


不条理な青春時代に超能力が寄り添ってくれたらとみんな思う。

 

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