二年前にやりかけたことを終わらせた

 

はじめはまったく知らない分野の遊びだったので、のめりこみやすかった。
SNS上でのコミュニティーがまだできる前で自分もわいわいとした、
ざわめきが程よく輪郭をおぼろげにしていた。
久しぶりに他人とのまとまった接点だった。


とても楽しかった。


これは否定の使用がないし、今更そんなことしようとは思わない。
しかし、10年前の自分ならどうだっただろうか。
まぁ、同じだろう、今と。


さて、二年ぶりにポストした。
いざ、アプリを開いたら、震えと動悸が止まらなかった。
むさぼるように昔、接点があった人のポストを舐めていった。
興味深く、視座に富んだポストばかりで、自分のテキストの用意など後回しだった。


とても楽しかった。


反応は、10分で20弱、初動が殆どなきがするので、こんなもんだろう。
トイレでアイコンがアニメーションするのを10分眺めていた。
これはきっかけにできる。
しかし、いばらの道のり。
一切、それらの痛みがやむことはなく、心は折れるだろう。
しかし、歩んでみたい。
もう一度、参加したいんだ。


コントラストが棘の正体である。


他人大勢ができて、自分ひとりができやしない。
そのできないことが、コミュニティーにとってのメインになる。
いままさに目の前で誕生し、成長していき、自分も育ての一人であるはずなのに、
自分を残して、独り立ちして、他人大勢はそれの主体たるコアメンバーになってる。
子供は独り立ちしていくものだ。そう思えば、不正確でも気休め。


病気なんだよ。


自分がついていけないのは、それのせい。
しかし、歩んでみたい。
もう一度、参加したいんだ。


できないものはできない。


ほかにリソースを回すって決めてる。
二年たっても無理なままだ。


でも、まだ試しても見ていない。
でも、1ポストでこのざまだ。


個人に閉じたものにしておこう。
たまに、開けてみよう。
今回のように。
そして、又思う。


”もう一度、参加したいんだ”


”病気なんだよ”