歌人には賞味期限があるのか?

歌壇に投稿しようかとか思ったけど、条件として未発表作品であることが多い。毎日一首作ってはいるがそれを毎日noteへ流してしまっている。去年5月からの日課になっているのでそれはそれでやめたくない。なんやかんやでnoteを通してなんやかんやである。そんなわけでnoteの方は続けたいが、それでは短歌のネタが無くなってしまう。

「短歌のネタがなくなってしまう」

この感覚を発見した。これは自分には歌人としての賞味期限があることだ。言葉のパターンを食いつぶしてしまっているのではないか。文学の素養のない自分には語彙がない。少ない語彙や文法や概念の転換パターンなど、日々消費してしまっている。SNSへ投稿している以上、歌壇へ叩きつける短歌が日々消えていく。またSNSを諦めるパターンなのかと悲しくなる。もちろんそんな極端なことじゃなくて毎日投稿を気まぐれ投稿くらいにすればいいだけだが、自分の性格的にどんどんやらなくなっていくだろう。昔そうだったよくそが。歌壇に挑戦できるほどの短歌をそもそも詠めない問題は実際に投稿してみて乗るか乗らないかでわかることなので、投稿できなきゃ始まらない。SNSを優先するか、歌壇用に短歌をストックするか、選択は迫られていないがどちらもできるほど生産性ない。一日一首でお腹いっぱいです。休日にまとめて連作作るとかはまぁ、むりぽ。全然できないよな何でだ。一日の終りにその日一日分の感情やらなんやらがこもったのが一日一首短歌になるのでネタが揉まれてるのだろう。言葉になりやすい。もうこの文章も何書いていいかわからんくなってきたな。

未発表作のみ、類似削除外、などを条件に短歌をやっていくと、言語的枯渇、自己的枯渇、概念的枯渇、詠みたい世界対象的枯渇などなどに直面するので、作るほどに首を締めていく、寿命を縮めているのではないかと思うところです。めちゃくちゃいいのできたなとか思ってSNS上げると、もうその一首では歌壇で勝負させてもらえないわけでしょ。31文字の狭い空欄の弊害なのだろうか。詠みたくもないもの詠んで歌人やってますみたいな人多いのだろうか。世界はかんたんにはネタ切れしないからまぁそんなことすくないだろうけど、何年もやってるとどこかでモチベや自己を消費し尽くしてしまうことはないのかな。歌人的精神危機。そのような問題を発生させる人生の豊かさというべきか。そのへんも楽しいのだろうな。。。

歌壇って商業的だから未発表のみになるんだろうな。歌人の認証欲求の肥大という意味ではSNSでやってもそれはそれでよいのだろう。歌壇に拘る必要はないのだろうけども、まぁ高名な先生方に「認めてもらいたい」的なわかりやすさがあるよな。僕にとって短歌とはなんなんだろうか。僕は歌人になりたいのだろうか。言語的認知的柔軟性をあげたい。言葉のストレッチみたいなもんで、ほら、体柔らかいと怪我しにくいでしょ。言葉も柔らかいと怪我しにくいんだろ知らんけど。日々の私的なストレッチの残穢で社会的歌人などやるもんではないかいやそんなことはないだろう。

僕だけの光の行方としてこの瞳 三分探す下の句