結果としてこの一年、短歌に社会還元性を探していた

思春期のマインドのままに年を取る

よい記事だ一年前の俺。おぼろげに俺の暗黒面に社会還元性を付与して社会参加していくぞという目標があった。この一年毎日短歌を一日一首詠んでいた。それがそれにつながっていた気がする。

が、最近一日一首ノルマをサボっている。きっかけはYoutubeの見すぎで短歌作る時間消えていたからという気がするがしかし今までなら夜ふかししてでもノルマ達成を優先しただろう。下書きから雑に作ってでも。それすら最近やってない。ノルマという感覚が非常に機能していて一日一首を続けられた。ノルマがなぜノルマになったのか。noteに気がついたら毎日投稿していたからだ。SNSの楽しさと短歌を作る楽しさのシナジーが発生していたのが大きい。

が、最近noteめんどくさいみがある。やはりいいねノルマがつらい。10人もいないくらいにしか毎日いいねしてないんだけどそれすらめんどい。記事読んでおもしろかったらいいね、が正解なはずなんだが、記事読まずしていいねするようになったここ数日なのでもう終わりだって気がする。まぁバッサリ辞める必要はないので気が向いたらやるくらいでいいんじゃないかな。っていう。。。

問題は、SNSという動力が減少してきたことで短歌を作るルーティーンが乱れることにある。短歌はまだまだ続けていきたい。SNSに投稿するのを控えるぶんを歌壇に投稿したい。一日一首のルーティーンを維持し短歌力を維持成長させなければならない。ではどうモチベーションを、短歌を作る動力を維持するのか。

ひとつ、上記の記事だ。肥大した自我そのものが社会的価値を持つようになることを願うことだ。「認められたい」としろくま先生のお言葉が思い浮かぶがそれもあるだろう。しかし、肯定なのだ。否定しつくされた自分の救済を望んでいるのだ。あの日死ななかった過去の自分のつよき理性を肯定してあげたい。いつかタイムマシンであのころの自分に会いに行って、話をずっと聞いてあげたいのだ。連合弛緩的言語ゲームにハマっていた自分に社会性のある言語ゲームの道を教えてあげたい。短歌というささいなフォーマットにのっとるだけでだいぶ世界が広く優しく見えることを告げる。その時に自分の歌集をお見上げにしなくちゃ。

そうか歌集を作りたいんだな僕は。