〚「『これからの友情』を読む」を読む〛を読む

「『これからの友情』を読む」を読む

これからの友情を読むを読むを読む。すごく刺激になった。ここで紹介された歌集を欲しいものリストに放り込んだのですこしづつ読んでいきたい。

さて、私には短歌を評するというのができない。書き手がどのような意味を込めようとも、読み手は如何様にも意味を読み取るもしくは発明することができるという原則に立つからだ。そのような堅苦しいことを前提としない場合であっても、単純に感動を言語化するのは不粋である気がするし、できるだけ粋な言葉で説明してみる能力もない。まぁなんか書いてみるか。

昼のバレエ教室と思ってくれたらいいから これからの友情は

丸戸洋渡

「昼のバレエ教室」、昼は基本仕事の時間で、バレエ教室は子供の習い事もしくは大人の娯楽だ。休日なのだろうか。思ってくれたらいいから、想像を促しているもしくはすでに知っている記憶を思い出してと言っている。私は昼のバレエ教室に縁もゆかりもない人生を送ってきたので記憶にはない。よって想像を、もしくは創作をするわけだが、、、思いつかない。

ともすれば、「思い付かない」ということを思ってみる。これからの友情はそのような想像の至らない届かないようなものだと言っているのだろうか。縁もゆかりもない新しい未知なる友情が始まるとでもいうのか。珍しい友情の再スタートな気がする。これからの友情をリニアな、昔から続いてきてこれからも続いていくそれとするなら、そんなドラスティックに友情が変化するのは想像しにくい。

一個人との関係性ではなく、自分の中での友情という概念の運用が変わるというのはどうだろうか。「昼のバレエ教室」、新しいことへのチャレンジ、男性にとってはバレエというのはことさらハードルが高いだろう。すでに破壊的なドラスティックな経験の後で友情というものに逃避的な、トラウマ的な感情が芽生えたのかもしれない。昼のバレエ教室というのは距離感、遠さを表しているのかもしれない。

「昼のバレエ教室」、優雅さを感じる。これはバレエからくる印象というより「昼」から感じる。昼とは仕事の時間だ。その時間にバレエというあまり実用的でないというと怒られが発生しそうだがそれは置いといて、資格勉強とかでもない純粋な娯楽に興じる時間があるという点に優雅さを感じる。友情という純粋な娯楽。あってもなくてもなんとでもなるような友情。やはりこの解釈も距離感、遠さを感じるが、しかしネガティブではない羨望的な友情を見ているように思える。

「これからの友情」、友情の境界線を感じるのはやはり変化した時だろう。始まりや終わり、進学就職引越し結婚子供などか、喧嘩とかもあるか。これからというチェックポイントに何がある。「これから」は今この瞬間から未来を意味するが実態的には何がある。この短歌には書かれていない。「昼のバレエ教室」を連想する何かが。もしくは、だたそこに「昼のバレエ教室」があるのか。

「と思ってくれたらいいから」語りかけている。誰に。友人にだろう。友人じゃないとしたら?読者?自分?空?

まとめると特にまとまらないのだが、ふわりと友情を遠くへやっている気がする。昼のバレエ教室から何を思えば良いのか。昼にいい印象を、バレエ教室に微妙な印象を持つ。優雅にドギマギしそうなこれからの友情。そう思ってもいいらしい。わからんけど。