内向性が行き過ぎると外向性へ向かう話。
内向性とは、自分の外側へ活発に向かうよりも、内側へ自閉していくこと。外向性とは、自分よりも他者へ、知っていることよりも知らないことへ向かうこと。社会に嫌気がさして、他人を排除して自分の心に閉じこもる。唯一のよりどころである自分の心を頼り、気持ちを整理していく。しかし、自分の心の中も、社会や他人であふれかえっていることに気づく。どんな人も一人では生きていけない。何らかの形で社会とかかわりをもって生活してしまっている。生きていくだけで、生まれてから物心ついて自閉するまでの間に他人や社会が心を満たしている。自閉するほどに、真に孤独を求めるほどに、内面にどうしようもなく外の世界が居座っていることに気づいていく。
これが「内は外」である。
自分内宇宙を探索するのは内面化された外の世界を探索するのと同義である。もちろん、実際の外の世界とはちがって、時間は止まったままで都合よく時間を進めることができる。自分本位で、自分が神の世界だ。しかし、現実世界に疲弊した人にとっては、それくらいやさしい世界がちょうどいいリハビリにもなる。余計なノイズをキャンセルできる分、どっしりと向き合うことができる。そのように外を振り返り学びなおす。
人々の内向性によって育まれた外の世界は、自閉した心の内に閉じ込められたままか。これは自閉の度合いにもよるが、外へと表現されざるを得ない。生きるのであれば社会生活が必須で、その過程においてにじみ出てしまう。自分を積極的に開示する、表現することが好きな人も多い。特に内向的に考えたことが、まるで自分オリジナルな考えであるかのように思ってしまいやすい。結果だけ見ればよくありがちな、とても常識的な考えで個性はあまりないような考えに見える。しかし、当人にとっては、その結論に至るまでの思考プロセスが貴重で感動的な体験であったりする。そのようなことを人に話したくなるのも必然。そうやって、「内は外」が「外」と帰っていく。個人の思いを乗せて。
あまりに自閉が強い人であると、一生抱え込んで、自分の心を自分だけの物と大切にする。そのような人は、「内は外」であることに気づいたときに果てしない絶望を抱え込む。外から逃げ込んだ自分だけの世界のはずなのに、そうではなかった。自死も考えるようになってもしょうがないであろう。
真に孤独はありはしない。孤独という考え方自体、他者集団の存在に依存した相対的な概念だ。外がなければ内もない。分け隔てるものがない。外を否定し、存在を消し去ってしまうと、内も消え去ってしまう。
運がいいと「内は外」に気づいたとき、内向性がそのまま反転し、外向性へと転じることがある。性格もすっかり変わってしまい、まるで自分の思い通りに動いているかのようにふるまう。自分内宇宙で神であった感覚が、リアル世界でもあるかのようだ。
「内は外」であり「外も内」だと思い込んでるんだからしょうがない。内で育まれた物々が外へと帰っていき、外は内で溢れている。それがまた内へと流れ込んでくる。
そうやって、人々の内向性と外向性の循環が心の流れを織りなしている。内も外も同じなのだと。あれほどに深く自閉した自分は外へ向かっていったのと同じだと。そんなふうに自閉や内向が、社交や外向へとそっくりそのまま反転する。反転ではなく、外と内が同一化したのかもしれない。